火の鳥にみる「不条理さ」と人間の成長

さいきんタイムラインで流れてきた「火の鳥はクソ鳥」説。
(手塚治虫の「火の鳥」ね)

『火の鳥』のクソ鳥っぷりについて突如語り出した人々のTL
https://togetter.com/li/1196554

火の鳥はクソ、滅ぼせということが書かれていて、大好きな私としてはショックだったんですけど、そういう考え方もあるのかーと。

自分は、あの火の鳥の理不尽さはちっとも気にならなくて「そんなもんかー」と思っていた。読んでいたのが小学校低学年だったからスンナリ受け取ってしまったのかな?

で、いまも違和感ない。
それを後付で理屈をつけてみる。

ああいう「全能神の理不尽さ、不条理さ」に関する議論というか智慧については、エマニュエル・レヴィナスとか、タルムードを読むとなんとなく「分かる」気がする。

内田樹せんせーの受け売りだけど、旧約聖書とか読むと、神って超不条理なんだよね。兄弟を生贄に差し出せとか、ここを出て違う所にいけとか。

その超不条理の神に反抗するのではなく、受け入れてどう生きていくか?というのが旧約聖書や、タルムードとか、ユダヤの民の命題なのかなーと思う。

人間が祈ったらそのとおりにしてくれる神は「幼稚な神である」と、内田せんせーは言う。

もし神が、その自らのごとく偉大で無限の可能性をひめる存在として、人間をつくりそのように成長をもとめるのであれば、人間を「か弱い存在、祈りや願いを聞き届けていないといけない存在」としては扱わない。

だから、一見不条理なことを(対応できる人間をみきわめて)与えて、成長させる。

そしてユダヤの民は、自分たちこそ神の恩寵を受けし人間で、だからこそ選ばれて「不条理さ」を受けとめて生きねばならない…と考えているそうな。
(そのユダヤ人の「自分たちこそ選ばれている」意識が、他民族のひとはカチンとくるから迫害する、という話もあるらしいが)

と考えると、火の鳥もそういう存在なのかなあと思う。

不条理さを受けとめ、それでもなお生きる強さがあるものに、一見「悲劇」とか「不幸」に見える試練を与える。

その試練を乗り越えた人間が、世界をかえ、多様性を付与する。

・・・という屁理屈。

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